法人歴史

「創設者 三田谷 啓」の文献 Literature-Hiraku Sandaya

創設者 三田谷 啓の文献
「我国に何故治療教育事業興らざるか」

我国に何故治療教育事業興らざるか 
[三田谷 啓]

精神神経学雑誌第四十一巻第八号別刷
(昭和12年8月28日発行)

我国に何故治療教育事業興らざるか (研修資料) 
[三田谷 啓]

(昭和11年10月1日受理)

治療教育とは何か

 ここに治療教育と称するのはheilp(ae)dagogikの意味である。その定義は必ずしも確定しているわけではないが、大体に於いて次のように理解していいと思う。
 治療教育とは障害児童を最も適当な方法をもって取り扱い、その全生活の改善をはかることを目的とするものをいう。この事項を研究する学科を治療教育学と称するのである。勿論、治療教育学は応用学科であるから、基礎学科と補助学科の力を借りる必要がある。
 基礎学科は生理学、衛生学、小児科学、精神病学、神経病学、児童心理学、教育学等で、補助学科は体操学、音楽、木工、機械、園芸、児童心理、動物心理、比較心理、人類学、統計学、神話、童謡などの諸科をあげるべきである。

現今我が国に於ける治療教育の状態

 治療教育の対象はもとより障害児童である。即ち知的障害児(主として智カに障害あるもの)と精神障害児(主として性格障害のもの)である。知的障害児の数は各国に於いて調査された実績がある。我が国に於いても部分的に調査されたものがある。かつて私が東京市小学児童について調査したことがあったが、その結果、学童100人につき2人~3人の知的障害児があった。その他就学猶予児、就学免除児の中には知的障害児の多くあることは事実である。これに精神障害のものを加えると相当の数になる。我が国に於いては特別教育と称し学級を設けて知的障害児を受け入れているものがあるけれども、これは甚だ微々たる程度である。特別学校はまだ出来ていない。これは誰が何と言っても他の文明国に於ける特殊教育機関と比較して極めて幼稚な状態である。ドイツではいち早く補助学級Hilfsklasseというものを設け知的障害児を受け入れていたが、それは余程以前のことであって、数十年前よりは独立した補助学校(Hilfsschule)を設け、これを普及することになった。
 治療教育は補助学校より更に複雑な組織であって、日夜障害児を受け入れて教養するものである。この機関は最も効果の多いものである。私が今より10年前治療教育院を創設した頃、種々の方面より治療教育とは何物なのかを尋ねられた。教育者側からもまた医学者側からも治療教育の性質をただす人が少なくなかった。治療教育はその名より推して治療と教育を行うものだろう位に考えられていた。なるほど治療教育は医学者と教育者との共同作業を必要条件とするものであるが、治療と教育とを施すという意味ではない。治療教育は教育の一種であって、これを特殊教育或いは補助教育と言ってもいいのである。要は知的障害児にもっとも適当な教育法を施すことにある。特別学校、ドイツのような補助学校が設立されない我が国に於いて、これよりも一層複雑性を帯び、経営の困難である治療教育院の公設を見るに至らないのは不思議なことではない。
 しかし一面から考えると、障害児童も愛すべき小国民である。日本の家族の一員である。知的な働きが鈍いからといって、これを捨てて顧みないという理由は少しもない。
 児童は心身の優劣にかかわらず、もっとも適当な方法をもって教養される権利を持っているのである。
 幾十年前より数百名を受け入れ、特別な方法と組織によって障害児を教養しているドイツの補助学校のような施設があるにもかかわらず、我が国にはその種の企てが一向ものにならない点からみると、確かに不可思議な現象といわねばならない。
 我国の学童1千万として、その中に3%の障害児童があるとすると30万の学童が恵まれない地位にあることになる。
 この国家の由々しき現象を誰が不問に附していいと断言できるであろうか。就学猶予、就学免除などの児童を合わせたら実際は上にあげた30万以上になると思うのである。ついでに申して置くが身体障害のもの、例えば重度障害児も我が国ではその保護が徹底的に幼堆である。
 その他盲聾唖の教育機関はあるにはあるが、数に於いてはまだまだ不充分である。弱視児童とか、難聴児の教育に至っては何等の機関も無いのである。
 このような状祝では、知的障害児は生存の権利を充分認められないのが現状である。故に彼等の将来は極めて悲惨な運命を辿ることが多い。もともと個性に適する教育を受け得られないのであるから、成人になっても適材適所という境遇に置かれない。その結果、彼等の多くは世の落伍者になり、厄介者視されることになる。即ちある者はホームレスの群に入り、ある者は売笑婦の仲間入りをし、或いは彷徨し、或いは乞食し、或いは犯罪し、或いは行き倒れとなり、或いは精神病者となる。そして衣食に事足るものは浪費しつくすことになるのである。
 このように彼等の最後は実に不幸な運命に支配されることになる。このために受ける悲しむべき生涯は単にその人個人だけに止まるものではない。直接に国家もその影響を受ける。実際上から言うと、物質の上から考えても国家は年々多大の出費をしなければならない。例えば放火者が出るとか、人畜の殺傷などの事件を引き起こす者が出たら、巨額の財貨は一瞬にして消えてしまうのである。苦い経験は今までどれほど多くの国家と社会が嘗めてきたかしれないのである。そして年々国家はその種の人々のために否応なしに巨額の負担を余儀なくされているのである。
 私が強調したいのはこの点である。この年々負担する巨額を特殊教育、即ち障害児教育のために善用すれば個人の生活を改善し、国家の安寧を保つ上にどれだけ効果があるか知れない。
 精神障害者のために或いは警察費として、或いは裁判所費として、刑務所費として、行き倒れや貧者の救護費として、病院公費患者としての支出総額は巨額のものであって、これは年々のことである。
 これ等の費用は多く対症的なもので予防的なものではない。これを、教育を施す時代、即ち児童期に運用すれば「死金」が「活金」に変わるのである。歴代の為政者が今日までこの点に留意して可憐な小国民の運命を闇より光へ導くことに努めなかったのは、実に残念なことといわねばならない。

障害児童を見殺しにするのは果たして誰の罪か

 恵まれない障害児童をいつまでも救わずに置くということは、何と言っても許しがたいことである。
少なくとも次の各方面の尽力によって具体化しなければならない。

1.文部当局は全国の障害児数は勿論、彼等の運命が如何に悲惨なものであるかを調査し、一面には特別学級及び特別学校の施設を立案し、更に治療教育院の創設に努めるべきである。
2.教育者側よりの障害児教育制度に関する要求の声が非常に低いようである。籍を教育界に置く者、全員の声として強調する必要がある。
3.我が国の障害児教育は文明国として体面を保たれない程の幼推さであり、欠陥であることをまず社会が認識して、社会がそのような事業に関心をもつことである。人と物と条件が伴えば直ちに率先してこの大欠陥を補う行動に出るべきである。社会がいつまでも無関心で、事業の進歩をはからず、他人ごととする間はこの種の事業の充実を見ることは到底困難であるといわねばならない。

治療教育の効果

 治療教育の効果については多言を要しない。即ち治療教育は障害児童の各個について最も適当な支援を行うからである。その支援の大要は、心身の障害をなるべく除去し、生活を向上し、その素質に適した作業をとらせるのである。このようにしてなるべく個人が最も得意とする業につかせることを努めるのである。
 治療教育に関する一般の認識の不足する事は次の点である。即ち治療教育を施せば障害児でも普通の程度になるか、もしそれが不可能ならば教育する価値はないと考えることである。
これは根本的な誤りであることをまず理解させなければならない。独自の才能を伸ばすと障害児でも時には普通児以上のことができる。しかしこれは特殊な事柄であって、それが出来たからといって普通児になったわけではない。たとえ貧しい職だといっても、それが人生に必須の職業であったら、それを責任もってしてくれたらそれでいい。大学卒業者が鋭敏な上頭の頑で法律の網をくぐる工夫をして社会に迷惑をかけるより、責任をもち真剣に仕事する職業者の方が、むしろ人間生存の意義が深いともいえる。要は人類の社会生活を安らかにする点にある。
 現今の我が国に於ける特殊教育は特別学級を普及し、更に大都市にあっては特別学校を設立し、全国に治療教育院を設けなければならない。我国の教育が単一教育に捉えられて、特殊教育方面に留意することにたいそう不充分であるのは、国民教育を根本的に見て大きな欠陥というべきである。
 しかしながら事実をこのまま放置すべき時代ではない。医学者も教育家も共に特殊教育の要に当たるべきである。

  教育者よ起て、起って可燐な児童を闇より光に変換させよ。
  医学者よ起て、起って彼等の障害を支援し、補強し、生存権の拡大を喜ばせよ。

 実を言えば概して教育家に障害児教育の真価を認め渾身の努力をする人が少ないようである。特別学級に従事する教師は肩身のせまいような状態である。そして如何にも貧乏くじをひいたように、人も自分も考えているようだ。光栄と考えて決して恥ずかしいことではない。
 医学者にしてもそうである。障害児の持っている障害に向かって最善の支援をし、心身の能率を増進させたら、病気の治療をするのと何の差があるのか。
 今や国家の大欠陥として障害児教育に大きな孔ができている。そしてその結果として国家も社会も家庭も個人も大きな損害を招いているのである。この禍を転じて福に導くことは何人にも関わる生存の重大な事件ではないか。

(平成14年7月 現代文に修整 文責 堺  執)

創設者 三田谷 啓の文献
「三田谷啓の思想と実践、近代精神の結実」

近代精神の結実

執筆者 加藤瑞穂さん(芦屋市立美術博物館学芸員)
※「阪神間モダニズム」展の公式カタログより引用させて頂いています。

事業の概要

 近代芦屋に生まれた初等教育機関を考える際、芦屋児童の村小学校とともに忘れてはならないのは、昭和2年に医学博士の三田谷啓(1882-1962)が精道村打出に開設した「三田谷治療教育院」であろう。
 この施設は「身体や精神の発達の不十分なるコドモを収容して身体を丈夫にさせ学力の増進をはかり道徳性を涵養する」ことを目的にした「学校と病院と家庭とを一緒にしたような」場所であった。
 三田谷は、富士川遊から治療教育学を、呉秀三から精神病理学を学んだ後、ドイツへ留学してさらにこの分野の見識を深め、治療教育の実践に一生を捧げることを決意した医学者である。
 帰国後は大正7年から十年にわたって、全国にさきがけて大阪市社会部に設置された児童課の課長を務め、児童相談所や産院、乳児院などを創設、また雑誌『母と子』『白ばら』『児童相談』をつぎつぎと創刊し、母性の教育、精神薄弱児の保護・養育の必要性を広く訴えた。
 大正12年には精道村役場内に「阪神児童相談所」を開くと同時に、大阪市南区三休橋に大阪出張所をおき児童相談を開始、昭和2年に大阪出張所を東区今橋に移転して「三田谷治療教育院」と改称した後、同年内に教育院本院を精道村に設置し、子どもを完全に預かることのできる学寮「コドモの学園」も付設して、本格的に治療教育を開始するにいたった。
 ここでの事業は、児童収容部、児童教養相談部、社会教育部の三つに大別され、各部門でそれぞれ「コドモの学園」における児童の治療および教育、身体・知能両面の検査を含めた児童相談、講演会・展覧会の開催や印刷物の発行などによる社会的な啓発がおこなわれた。

これらの活動の特徴としてまず挙げられるのは、医学と教育との結びつきであろう。

 三田谷は、知能の発達が順調でなかったり、性格的に問題があるのは、何らかの身体的疾患に起因する場合が少なくないという見地から、検査や治療のための医療機器を院内に完備し、子どもの性状の把握とその改善をはかった。
 治療教育院の案内パンフレットには、人工太陽燈室や光線浴室、歯科室、レントゲン室、水浴室といった設備の写真をかならず掲載し、治療が近代医学に則ったものであることを強調した。

代表的な医療機器として、案内パンフレットやフィルムなどで必ず紹介された人工太陽燈室。上部に見える装置が水平に回転する仕組みで、おそらく日光浴と同じ効果を上げるものとして活用されたのだろう。

治療のために使われていた光線浴室。トンネル状の臥床の中に74個の電燈がある。この中で横になり、肩から下をすっぽり包んだ状態で光線を浴びる仕組みになっていた。

身体や知能に障害を抱える子どもを対象とした施設がまだ珍しく、その必要性すらほとんど認識されていなかった時代に、最先端の医療機器という近代的な知の集約を導入したことは、至極画期的な試みだったにちがいない。

 つぎに挙げられる特徴は、母親の教育を重視した点である。

 三田谷は、子どもの健やかな成長のためには、何をおいてもまず母親自身が、子どもの心身両面に関するさまざまな教養を身につけるべきだと考え、その啓発活動に心血を注いだ。
 昭和2年の治療教育院創設当時より毎月講演会を開き、その回数は多い時には一ヵ月に10回以上にもおよんだ。
 また、展覧会を「母親巡回学校の一種」「母性修養の参考」ととらえ、ほぼ毎月各地で「母のための展覧会」「コドモを強く賢くするための展覧会」「体位向上展覧会」などを開催した。

母のための展覧会(大丸 神戸)

 これらの展覧会では、人体諸器官の写真や模型、検査機器、あるいは母子をモチーフにした古今東西の美術作品の写真や母子教育に関する古書、子どもの玩具などが、詳細な解説パネル付きで展示されていた。それは母親たちにとって、育児に関連した幅広い一般教養を修得できる絶好の機会になった。昭和5年の記録によると、入場者総数は昭和4年末までで38万4千人余りにのぼったという。
 その他、保育に関する数々のパンフレットや雑誌の頒布、治療教育院の事業を記録したフィルムの上映、「母の会」の形成など、あらゆる手段を通じて母性教育に努めていた。

総てが規則正しく愉快に

 さて、このような教育機関に入っていたのは、具体的にはどのような子どもたちだったのだろうか。
 昭和3年の『育児雑誌』に掲載された「コドモの学園」の入園案内には、つぎのような子どもを対象としたことが明記されている。

  • 一、 身体が弱くて(例えば貧血、腺病質、弱質等で)家庭で其教養に骨の折れる場合。
  • 二、 病気の回復期。
  • 三、 学校の成績がよくない場合。
  • 四、 学校で落第するコドモ。
  • 五、 親に従順でないコドモ。
  • 六、 悪い癖(例えば虚言、活動通い、買食、出歩き等)のコドモ。
  • 七、 神経質のコドモ。
  • 八、 親又は保護者の無い場合、あっても弱かったり、遠方に住居してコドモの保護に当れぬ場合

 このほか昭和9年頃のパンフレットでは、近視や難聴など、五感に何らかの障害がある子ども、吃音や言語不明瞭などに悩む子どもも募集対象としているが、基本的には昭和3年の方針を堅持し「健全な心身の育成」とともに「成績の向上」を念頭において、子どもの治療教育に当たっていたことがうかがえる。
 治療教育院を訪れた人びとの相談内容も、昭和15年頃までは、重度の障害に関するものよりは、身体虚弱か学業成績の不振に類するも のがはるかに多かった。
 つまり「コドモの学園」に入園していたのは、必ずしも障害児だけではなかったのである。そして、一ヵ月以内に退園するケースが最も大きな割合を占めたという事実も考え合わせるならば、現在では健常者と見なされうる子どもの方がむしろ多数派だったといえるだろう。
 これらのことから当初の治療教育院は、今でいう「障害児施設」とはかなり様相を異にし、生活指導までも含めて教育する昨今の「スポーツ教室」や「塾」のような役割にもなっていたことがわかる。
 それと同時に、子どもの養育に関して早くも当時、「健康」とならんで「成績」がどれほど重大な関心事となっていたかも推察できる。

 三田谷は子どもの身体や知能の検査をおこなった後、子どもが虚弱体質をもち、それは母親が甘やかして育てたことに起因するという診断を下す。こうして彼は学園へ入り、そこでの生活を通して身体を鍛えると同時に勉強に対する意識を改め、数カ月後に無事退園することになる。

こうして彼は学園へ入り、そこでの生活を通して身体を鍛えると同時に勉強に対する意識を改め、数カ月後に無事退園することになる。

 このフィルムで一番印象的なのは、治療教育のかなめが「規則正しい生活」にあるという理念を全面に打ち出している点である。一日の時間割りや「総てが規則正しく愉快に」というモットーをはじめに大きく映し出し、時間割りにそって治療教育の内容をつぎつぎと紹介していく場面展開、起床、食事、おやつの時間を告げる予鈴や時計のクローズアップ、それにしたがってきびきびと行動する子どもたちの描写など、あらゆる点でこのフィルムは、正確で合理的な治療教育のシステムを作り上げようとする意識に貫かれている。

一日の時間割りや「総てが規則正しく愉快に」というモットーをはじめに大きく映し出し、時間割りにそって治療教育の内容をつぎつぎと紹介していく場面展開、起床、食事、おやつの時間を告げる予鈴や時計のクローズアップ、それにしたがってきびきびと行動する子どもたちの描写など、あらゆる点でこのフィルムは、正確で合理的な治療教育のシステムを作り上げようとする意識に貫かれている。

 またこれを作成した三田谷のすぐれた近代的な精神、すなわち将来を見通し、目標に向かって現状を変革していこうとする意志、対象を分析し問題点を明らかにしてその解決をはかる理知的な力を如実に物語るのである。
 ところで、三田谷の治療教育が「生活」を通して実施されたという点は重要である。
 子どもたちは寝起きをともにしながら教師や保母からさまざまな生活習慣を学び、自己を鍛練していく。つまり治療教育院は、家庭における「しつけ」を、集団生活のなかでおこなっていたのだった。
 昭和9年頃のパンフレットには「コドモの学園」が「大きな一つの家庭で、ここでコドモが相互に睦み合ひ我が家に在るのと同じように家庭の和楽を味はせること」に努めていると記載されており、積極的に家庭の役割を肩代りしようと企図したことが明らかである。
 三田谷は、教育が単に学校にいる時間内だけでなく、生活全体を通してなされるのだと考え、生活の場である「家庭」を重視したのである。
 三田谷が母性教育に力を入れたのも、個々の家庭をより良い教育の場にしたいと願ったからにほかならない。

事業の意義

 以上で三田谷の事業を簡単に紹介したが、その試みが時代の要請でもあったという一面は、若干考慮に入れねばならない。
 当時日本は、西欧諸国に伍する近代国家の形成が急務とされ、それをになう人材の育成が求められていた。そのためには、子どもの身体を強健にし、自己を律しつつ新たな分野へ果敢に挑戦してゆくことのできる近代的な精神を芽生えさせることが重要であった。
 三田谷が顧問を務めていた日本児童協会の趣旨はつぎの一文ではじまり、強力な国家の建設を見据えて子どもの教育に当たっていたことがはっきりと示されている。
 「家庭の改造、社会の改造、国家の改造も結局はコドモの改造から初めることが最も近道です」。また、三田谷が主幹を務めた雑誌『母と子』の広告は、「母と子を善くすることは興国の根本主義」と謳い、その国家主義的な立場を明らかにしている。そのほか三田谷は自身の著作のなかでも、治療教育が社会問題に深く関わり、国家の発展に影響を与えるものであることを指摘し、たとえばつぎのように述べた。「治療教育は単に治療教育院に在る児童の教育を以て任務を果すものと考えてはならぬ。治療教育は身神状態の改善を謀ると言ふ目的の後ろに将来かかる児童が反社会的行為に出でざる予防の意義を有するものと解すべきである」。
 しかしこうした側面は、三田谷の事業の意義を定めるものでは全くない。時代の潮流に合致したのはあくまでも結果であって、その発端は、人間の自立性を尊重する三田谷個人のきわめて近代的な認識だったのである。それを理論の段階で終わらせず、医学にもとづく合理的なシステムの構築によって実践へと結びつけた試みは、近代精神の輝かしい結実のひとつにちがいない。
 さらにその意義は、障害児教育の分野内のみで議論されるべきでなく、より広い文脈のなかでとらえられ、評価されねばならないだろう。
 なぜなら当時治療教育院は、医学・教育関係の資料を幅広く収集すると同時に、その分野の最新情報をつねに発信し、またそれを求めて母親たちはもちろんのこと、医師や教師も多数集い交流していた、一大文化センターのような場だったからである。
 そうした機関の存在こそ、真の意味での近代化、言い換えれば、西洋近代の単なる技術移入に終始せず、それを生んだ精神そのものを育む土壌の形成を証明するものだ。

三田谷治療教育院(昭和4年)

 後方に見える建物三棟が治療教育院で、左から付属学寮「コドモの学園」、本館、院長舎である。写真はおそらく、ここで開かれた「母のための展覧会」を見るために、国道2号線から北へ向かって歩いていく人びとをとらえたものであろう。 『三田谷治療教育院史稿』によれば、この展覧会には近畿各地の婦人会会員や女学生たちが多数訪れ、入場者総数は5日間の会期で延べ2,650人を数えたという。
 また治療教育院は社会的にも注目を集め、昭和2年の創設以来、毎週のように全国各地の教師や医師、新聞記者などが見学に訪れていた。昭和13年4月には、個性尊重の教育を標傍した芦屋児童の村小学校が院内に移転することになり、かねてからの要望であった尋常小学校付設が実現した。
 同校は同年10月に翠丘尋常小学校と改称され、平成元年にいたるまで存続した。

『母と子』第十巻第一号(昭和4年1月)

 まず日本児童協会の機関誌として大正9年7月に『日本児童協会時報』という名で創刊された。
 その後、大正13年1月に『育児雑誌』と改題され、さらに昭和4年1月に『母と子』に改められた。
 後者の改題は、母性教育の必要性を喚起するためであったが、これは、当時協会の顧問を務め、事務局も担当していた三田谷の意向が反映された結果であろう。本誌には、母子の保健、衛生、教育に関する論文が掲載され、母親の教養を高めるのに大きな役割を果たしたと思われる。
 昭和19年2月から23年10月までは第二次世界大戦の影響で休刊。また、三田谷が没した翌年の38年以後は不定期の発行となり、第四十五巻第三号(昭和43年3月)を最後に廃刊された。

 後者の改題は、母性教育の必要性を喚起するためであったが、これは、当時協会の顧問を務め、事務局も担当していた三田谷の意向が反映された結果であろう。本誌には、母子の保健、衛生、教育に関する論文が掲載され、母親の教養を高めるのに大きな役割を果たしたと思われる。
 昭和19年2月から23年10月までは第二次世界大戦の影響で休刊。また、三田谷が没した翌年の38年以後は不定期の発行となり、第四十五巻第三号(昭和43年3月)を最後に廃刊された。

「阪神間モタニズム」 展

会期=平成9年10月18日~12月7日 4館同時開催

兵庫県立近代美術館  美術家の挑戦
西宮市大谷記念美術館 〈新時代〉の娯楽
芦屋市立美術博物館 〈健康地〉のライフスタイル
芦屋市谷崎潤一郎記念館  ハイカラ趣味と女性文化

「阪神間モダニズム」展の公式カタログ
広く展覧会の成果を伝えるために出版されたものです。

平成9年10月22日初版発行 「阪神間モダニズム」展実行委員会

関連資料

社会福祉法人三田谷治療教育院 蔵書目録 一部(作業中の見本) 例えば、こんな蔵書も・・・