法人歴史

「創設者 三田谷 啓」の物語 Story-Hiraku Sandaya

  • 明治14年(1881年)9月1日、兵庫県有馬郡名塩(現西宮市名塩)に農家の長男として生まれる。
  • 明治38年(1905)、大阪府立高等医学校を卒業後、上京して呉秀三から精神病理学、富士川遊から治療教育学を学び、医者として児童教育に終生捧げる基礎を固める。
  • 明治39年(1906)、兵役に就き医務に携わり、1年間の兵役終了後、富士川遊の助手として児童研究、および治療教育学の研究を行う。
  • 明治44年(1911)、ドイツに留学し、ゲッチンゲン大学で治療教育学、心理学を学び、ドクトルの称号を与えられ、またミュンヘン大学でクレペリン博士の指導を受け、精神薄弱児のメンタルテストをハール精神病院で行う。この間、各地の施設や治療教育院を視察する。
  • 大正3年(1914)、帰国後、「智力検査法」を発表する。わが国の精神薄弱児の鑑別にテストがつかわれたのは、おそらくこれが最初であろう。同年、治療教育院の建設地を東京に求めるが、なかなか見つからず、大阪へ移ることとなる。
  • 大正4年(1916)、日本児童学会内に児童教養相談所を設立するが、来談者が少なく、閉所となる。
  • 大正6年(1917)、東京目黒の児童相談所で身体部門を担当する。
  • 大正7年(1918)の春、大阪市社会部に児童課が設置され、その課長に就任し、児童相談所、少年職業相談所、産院、乳児院を創設する。この児童課は地方公共団体が設けた最初のものであり、全国を通じて児童福祉行政プロパーの最初の課長であった。
  • 児童相談所もわが国最初のもので、ついで横浜、神戸、京都にできる。そして、児童相談所内に、当時としては画期的な「母の会」をつくる。
  • 続いて、昭和23年に休刊した「母と子」と戦時中廃刊となった「児童相談」「白バラ」を創刊する。これらを発行することによって、母性教育の必要、精神薄弱児発生予防と指導保護のための家庭の役割の重要性を啓発する。この児童相談所内で扱った精神薄弱児のうち、十数名が、どうしても収容保護を必要とする者たちであると判断した三田谷は施設を設立しようという決心をより一層固めたのである。
  • 同年、大阪児童会の監事となり、大正9年(1920)、日本児童協会を設立。出版や講演などを行って啓発活動を始める。
  • 大正10年(1921)、職を退き、大阪医科大学で血液の研究をし、大正12年(1923)、医学博士号を授与される。
  • 同年、芦屋に阪神児童相談所を設立。皇室に児童保護問題についての啓発を行う。
  • 大正13年(1924)に中山児童教養研究所長になり、児童研究、母性向上運動を行う一方、精神薄弱児の収容保護、教育院の設立を国立で各府県3ケ所ないし5ケ所設置すべきであると主張する。
  • 大正14年(1925)に児童教養展覧会を開催し、皇后に母性教育の実施機関の設立を願い、今日の恩賜財団母子愛育会創立の基盤をつくる。
  • 昭和2年(1927)、「三田谷治療教育院」を現在地(兵庫県芦屋市)に設立する。
    ここでは、精神薄弱児、病・虚弱児などを収容したり、相談に応じたりしている。
  • 昭和4年(1929)、母子保護の知識をより広めるために同院内に「日本母の会」を設立する。
  • 昭和10年(1935)、恩賜財団母子愛育会の理事となり、昭和13年(1938)には学齢期の障害児のために院内に学校法人翠丘小学校を付設する。
  • 昭和25年(1950)、全日本社会事業大会で社会事業功労者として表彰される。
  • 昭和31年(1956)、「少年の村」構想を実現させるために行政機関に働きかけ、翌年、院内に「農園学寮」を設ける。昭和36年(1961)、藍授褒章が授与される。

 三田谷啓の業績として、治療教育学の実践、児童保護、母子保護の啓発と実践活動があげられる。彼は一個人として特殊教育に貢献しただけでなく、それを行政ベースにのせようとしたことにより多くの功績を残す。 また、忘れてならないのは苦学をかさねている青年時代に知ったキリスト教との出会いであった。彼は、若き日、電話交換手として働いているときに、日曜日の朝、たまたま教会の前を通りかかり、好奇心もあって教会にはいり牧師の説教をきいた。その教会の宮川牧師が熱っぽく語るキリストの愛に彼は非常に感激し、それから毎日曜日教会に通い、そして、教会学校の幼児組を手伝うようになった。宮川牧師夫妻のあたたかいもてなしは、青年期の弧独をいやし、ドイツ留学の際に牧師夫妻から贈られたキリスト伝と白糸で編んだ二重の布は、彼にとって宝であったという。キリスト教という宗教的感化は、彼の後の事業にとって情熱の源となったのである。創設後、30年有余をすぎ、約2200人以上の心身障害児の社会復帰に力をつくした三田谷啓は、昭和37年(1962)5月12日、多くのこども達にみまもられながら80歳の生涯を閉じた。

~ 愛したことば ~

「涙の二等分」
「よく用いられたる人生は永し」

※参考文献
三田谷治療教育院 「三田谷治療教育院史(前編)」
日本文化科学社「人物でつづる障害者教育史」 津曲裕次、
迫ゆかり 相川書房 「現代社会福祉人物史」 相澤譲治